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2021年夏に第一子を出産しました。 恋愛のこと、仕事のこと、日々の思いごとの記録です。

7_初婚の話_離婚活動_2

おはようございます。raf(ラフ)です。
今回は、離婚活動の続きを書きます。
離婚を考えている方の参考になれば幸いです。

 

 

離婚に備えて―就業①

パソコン業務の経験を活かしつつ、入院していた自分が意欲的に前向きに働けそうな病院で働ける医療事務に着目しました。
ハローワークで見つけた未経験可の病院から「ぜひ来ていただきたいです」と内定をもらいます。
開業医の先生が開いている個人病院で、試用期間中は給料は時給で交通費は実費のところでした。
研修として1週間が過ぎたころ、面接をした方から電話がかかってきました。
「とてもお人柄は良いのだけど、率先力になる人が良くて。今回は不採用とさせていただきます。あなたならきっとほかのご縁があると思います」
私の頭は真っ白になりました。面接でも資格がないことは伝えていて、先輩から業務を優しく教えてもらっていたのですが、周りの足を引っ張ったり迷惑をかけたりしていたのかと思うとショックでした。
そして何より、生活がかかっていたので言いました。
「未経験可ということで応募をしたのですが、経験者ではないとダメだったのでしょうか」
「そういう判断です」
納得できない気持ちで電話を切り、ショートメールで給与や交通費の振り込みや制服の返却についての案内を受け取りました。
その後、私は不要だと言われた制服のクリーニングもして、自分を慰めるように高価なクッキーを買い、ハローワークに連絡を入れました。
「今回未経験可ということで応募したのですが、経験者が良かったようです。他の方も応募すると思うのでお知らせしておきます」
資格を持っていて未経験可、というように書いてあればまた違ったのですが、「丁寧に指導します」「未経験の方も歓迎です」という記載を素直にそのまま解釈していました。
私はこの経験から、次は本当に未経験可のところに就こうと給与条件を下げて探し始めます。

離婚をしない道も探る―夫との話し合い

まだ夫に愛情があったため、就職活動をしながら、将来について元夫と話し合いもしました。
「子どもを作らないのであれば、年に1回旅行に行くなど、二人の時間を大事にする機会を設けたい」など伝えました。元夫は「株で余裕ができたら良い。旅行場所を探したり予約するのはrafに任せたい」とのことでした。
交際時も結婚時代も旅行するときの新幹線や宿の予約は全て私がしていましたし、費用も元夫からの生活費で工面していて、元夫が自分のお小遣いから費用を出したり、予約をしてくれたり、積極的に相談に乗ってくれることはありませんでした。
旅先での買い物費用は元夫が出してくれるので嬉しかったのですが、お金を出すという手軽にできることしかしてもらっていなかったなと思います。

ここまで読んで下さりありがとうございます。
次回に続きます。

6_初婚の話_離婚活動_1

おはようございます。せっかく入力したものを自分で消してしまったおっちょこちょこいのraf(ラフ)です。気を取り直して入力しています。

今回は、初婚の話の続きで、離婚活動について書きます。
離婚を考えている方の参考になれば幸いです。

私は、大事に貯金してきた保険を無職の夫との生活のために解約したことで、正社員での仕事探しを始めます。(結果としてこの1年半後に仕事で生計を立て、ペーパードライバーも卒業して離婚します)
まだ夫に愛情があったため、自分自身を守るために離婚を視野に入れての就職活動でした。
媒体はハローワークマイナビ転職を使いました。ハローワークはメルマガがないのと、書類選考の通知がもらえるからです。マイナビ転職は会員登録をしなくてもWEBで求人を閲覧でき、エージェントからの電話もなく、メルマガも読みやすいサービスだったからです。
求人の絞り込みは結婚前にしていたパソコン関連のものからしてみました。給料は高いのですが、実際にその仕事で生計を立てられるかと考えたとき、もともとうんとITが好きというわけではないので難しいだろうなと思いました。前職のときにアプリやソフトのアップデートや、OSの更新などについていくのが大変だったのです。
もし、根っからのパソコン好きならOJTで指導を受けたり、会社の経費で勉強書籍を買って勉強できたりすることは幸せだと思うのですが、私にはプライベートの時間がなくなってしまうというデメリットになってしまいます。
そこで、目に留まったのが医療事務でした。パソコンを使っての事務の仕事で、定時も決まっていました。何より、病院は怪我で自分がお世話になったばかりだったので、病院で働くことは自分の自信やモチベーションに繋がると思いました。
数か月前は入院していたけれど今は患者さんを迎え入れる窓口に立っている、なんて素敵だなと思いました。
アルバイト先は、内定をもらい次第退職させてもらうことになりました。(ありがたいことに直前まで働くことができました)
生活のことを考えると、学校に通う時間や費用の捻出が難しかったため、医療事務の勉強書籍を購入し自分で勉強しつつ、ハローワークで見つけた未経験可のところに応募し、試用期間ありで採用をいただきました。
これが医療事務1か所目でした。(離婚できる仕事に就いたのは3か所目でした)

ここまで読んで下さりありがとうございます。
次回に続きます。

5_初婚の話_結婚してから_4

こんにちは。raf(ラフ)です。

今回は結婚してからのお話の続きです。

 

病院からの退院後、元夫が自主的に家事を手伝ってくれることはなく、ゴミ出しをしてもらう程度でほかの家事は全て自分で行っていました。(交際時から離婚に至るまで、掃除機を使っている姿を見たのは1度だけでした。)

リハビリの先生から「無理しないように」とは言われたのですが、元夫に洗濯物の干し方や食器洗いの仕方(水切りへの食器の入れ方。気を付けいないと割れてしまうので)から伝えないといけないのが億劫で自分でしてしまいまいた。この時、もっと言葉で伝える努力をすればよかったのかなと思います。


そんな中、元夫は「仕事に疲れたので株で生活したい。辞めたい」と言います。私は「休職して株で稼げるか様子を見たら」と伝えるのですが、元夫は「今すぐにでも辞めたい」と話し合いは平行線でした。

私はお金の心配をしていたので「ちゃんとやりくりできるなら良いよ」と渋々承諾をします。このとき、根本的に元夫と金銭感覚が違うこと、足りなければローンで借ってやりくりすればよいという発想だということには気づいていませんでした。具体的に話するのは大事だと思います。

それから、元夫の退職前に、入院中に約束していた入院で下りる保険金の一部で車を購入しました。


そして、いよいよ元夫が退職することになり、退職金や最後のボーナスの使い道や貯金について相談をし、元夫の無職生活がスタートします。
私は脚の様子を見ながらアルバイトを再開し、元夫はスポーツジムと株の生活が始まりました。元夫は無職になってもいままでの生活スタイルや嗜好品にかける金額を変えませんでした。生活レベルをそのままに生活していたので、貯金がどんどん減っていきました。


3か月ほどして、元夫から生活費が全く入らないので株について聞くのですが「順調。これから」という返事が返ってきます。生活に危機感を持っているのは貯金を崩しながらアルバイトをしている私でした。

元夫に「もし生活に困ったらどうするのか」と聞いたら、「カードローンで借りればよい」と言いました。私はなんて無責任で安易な考えなのだろうと怒りながら「借りたお金を返せなかったら親族に迷惑がかかるのでやめてください。借りたいなら身内に頭下げて借りて責任持って返して」伝えました。さらに、「このまま収入がないのは困るので、働いたり、本を売ったりして家庭にお金を入れて欲しい」と伝えます。元夫は本の収集癖がありました。交際時、未開封の本や読まない本がたくさんあり、結婚する際に1冊程度処分してもらい、30万円ぐらいになりました。まだ1千冊ぐらい残っていたので、少しは生活の足しになるかなと思いました。

元夫は「大切な本なので何か所か見積もりを取りたい」と言います。私は「生活のためなのでなるべく早めに」と伝えます。結局、元夫はお気に入りの本をなかなか手放すことができませんでした。手放さない代わりに働くことも選べず、本を売るために3か月かかってしまいました。
私はその間に、元夫から売ってよいのものの確認をして、ブランドの服や本をどんどん売っていきます。


そんな中で、住民税や協会けんぽの任意継続保険の支払いの通知書などが届きます。「どうするの?」と元夫に聞くと、住民税については100万程度あったのですが、なんとその払込書を私に渡して「払ってください」と言うのです。
任意継続保険は「知りません」と突っぱねたのですが、住民税については生活費のこともあったので、19歳のころから積み立てていた貯金や、年金保険を計300万円程度崩すことになりました。これは本当に後悔しています。働かない人のために自分が貯めてきたお金を崩すのは苦しかったです。


そして、やっとここで、「離婚」を考えるようになります。

離婚したい!という強い感情ではなく、このままだと私が金銭的にも体力的にも潰れてしまうという危機感を感じました。同じくらい、元夫がまた働いたり将来の子どものことを考えたりしてくれるかもしれないという思いもありました。ただ、そうではなかったとき、自分が壊れてしまうのは防ぎたかったので、いざというときに離婚できる状態にしようと決意します。

 

離婚するには生計を立てる仕事が必要でした。当時のアルバイトでは生計を立てることは考えられなかったので、正社員の仕事探しを始めます。
そして元夫に宣言をします。「働かないと生活できないので正社員のお仕事をしようと思うの」と。元夫は「どうして働く必要があるのか。正社員では働いて欲しくない」と言います。その理由は、一緒にいる時間が減るからです。私は呆れながら、私はこれ以上貯金崩しての生活はできないこと、元夫が今までの給料の水準(税込み年収1000万弱)で生活するのはおかしいことを伝えます。

 

夫婦共通の友人が多かったため、離婚を視野に入れていることは周囲には伏せ、私は寿退職して5年ぶりに正社員の就職活動を開始します。

離活の始まりです。

 

ここまで読んで下さりありがとうございます。

次回に続きます。

 

え_絵本の話_『100万回生きたねこ』

おはようございます。raf(ラフ)です。

今日はちょっと横道にそれて、過去ではなく現在のお話をしたいと思います。
とてもタイムリーな、今朝のお話をします。

 

深夜に夫は何を思ったのか、『100万回生きたねこ』(佐野洋子 作・絵)を読んで欲しいと言いました。
私はこの本はいつ読んでも泣いてしまうので、「えーっ」と拒んだのですが、「生まれてくる子どもへの読み聞かせの練習になるでしょう」と夫は笑顔で絵本を持ってベッドにもぐりこんできました。
私は仕方なく読み始めたのですが、結果二人とも寝れないほどに泣いてしまいました。
特に、夫に関しては絵本で泣いたことがなかったので泣くのを想定していなかったらしく涙が止めれらず頭痛を起こしていました。
夫は作品については知っていたし、読んだこともあったそうなのですが、泣いたことはなかったそうです。「rafちゃんに出会っていなかったら泣いていなかったと思う」と言って泣いていました。

 

私は何度も泣いてきましたが、初めて読んだ小学生の時と、夫と出会う前と、現在とでは読んだ感じ方が異なると思いました。
有名な話なのでネタバレしますが、その時々の読了後の感想は下記の通りです。
小学生の時は、「大切な存在に出会ったのに死んじゃってかわいそう。ずっと一緒に生きれたら良いのに」(同情的な気持ち)
夫と出会う前は、「大切な存在に出会うために100万回も生きてきたのね。出会えてよかったね。今の元夫がそう言う存在なのかしら」(自分の願望が反映される)
現在は、「ああわかります」(現実と直結している)

 

私は昔から絵本が大好きで大人になってからもたまに絵本を読んでいるのですが、大事なことに気づかせてくれる絵本って本当に良いなと思います。

 

ちなみに、現在の年下の夫とは同じアパートで出会い、1週間も経たないうちに半同棲をはじめ、4か月で同棲し、半年で子どもを授かりました。
この馴れ初めについても書いていくので(現在まだ初婚の話ですが)読んでもらえたら嬉しいです。

 

ここまで読んで下さりありがとうございます。
次回に続きます。

4 _初婚の話_結婚してから_3

こんにちは。raf(ラフ)です。

今回も結婚してからのお話の続きです。

 

元夫とセックスレスになってから、私は「いつか作る気があるなら、妊娠力検査だけはしておきたい」と提案をしてみました。すると元夫は「もしどちらかに妊娠力がないとわかって、rafがへこんだら面倒だから受診したくない」と答えました。私はこの後、踏切に飛び込みたくなるような気持ちになってしまいました。(そんなことをしなくても仕事を見つけて別れれればいいのですが、この時はそれに気づいておらず)
また、元夫からは「株で生計を立てたい。仕事を辞めたい。軌道に乗ってからなら子どもも考えられるかもしれない」と言われます。私は「仕事を辞めるにしても、成果が出てからやめたほうがいい」と伝えます。

 

もやもやとした気持ちを抱えて生活する中で、私は大きな怪我をしてしまい数か月入院をすることになってしまいました。
この入院説活で日常から離れたことで、日常に戻ったら「子どもが欲しい」と強く思うようになりました。
子どもの件を除いては仲の良い私たちだったので、元夫は週末は必ずお見舞いに来てくれました。毎回私の好物の果物をたくさん持って来てくれ、同室の人から「すごい仲が良いんですね」と声を掛けられるほど仲良く話していました。
そして、退院前日に元夫から「私の手料理が食べたい」「久々に友人と外に遊びに行きたいと思う」と言われ、快諾します。また、多額の保険金が下りる予定だったので、「車を買って二人でたくさんお出かけしよう」という話もしました。
いざ、退院して二人でスーパーで買い物をして帰宅すると、驚く光景が広がっていました。


私は松葉杖での帰宅だったのですが、玄関から廊下からリビングに至るまで酒瓶が並んでおり、玄関の扉は少ししか開けられず、松葉杖をつくスペースもありませんでした。
台所では傷んだじゃがいもやにんじんが放置され、リビングには病院から持ち帰った私の荷物がそのまま山積みにされていました。(長期の入院でぬいぐるみを持ち込んでいたり、お菓子や編み物セットなどのプレゼントをたくさん頂いていました)
また、私はアルバイトをしていたので元夫の扶養には入らず、国保に加入していたので限度額認定証を使用し格安で入院していたのですが、元夫は自分の両親から「お金がかかるから」とお金を借りていたことも発覚します。
元夫からは最低限の生活費しかもらっておらず、彼の生活費(お小遣い)は月15万あったのですが、それでは足りなかったようなのです。
松葉杖で帰宅する妻への配慮としての掃除も、金銭管理もできない人なのだと痛感し、ショックでした。


元夫曰く、自分は私のいない生活を頑張ったのだということでした。
翌日元夫は「帰宅したら片づける」と早朝に出かけて行きました。酒瓶のせいで思うように部屋の移動ができないので、私は結局一人で部屋中の瓶の掃除を泣きながらしました。(当時は三階に住んでいてエレベーターがなかったので大変でした)

 

ここまで読んで下さりありがとうございます。
暗い話が続いていますが、いまの生活につながる大事なバックグラウンドだと思っています。

次回に続きます。

3_初婚の話_結婚してから_2

 

こんにちは。raf(ラフ)です。

今回は結婚してからのお話の続きです。

元夫に「正社員にならないで欲しい」と言われた当時の私は、素直にそれを受け入れます。私のrafは高校生の時に知った、raise a family というフレーズの頭文字をとっています。両親が離婚している私にとって家庭を持つことが何よりの夢でした。

もちろん、子どもも欲しかったです。なので、正社員でバリバリ働くのではなく、アルバイトをしながら家事や趣味をするのが良いと思いました。(後々この「正社員にならなで欲しい」を元夫が無職になった後も言われるとはこの時は思っていませんでした)

 

私は日々の家事とアルバイトや趣味の習い事を楽しんで生活をしていました。穏やかな日々だったのですが、憧れの子どものいる生活がいつ叶うのかという一抹の不安がありました。
交際時、元夫は「子どもできたらrafは幸せそうに笑うんだろうな」と言っていたのに、子どもができても良いようにと選んだ広い新居に引っ越した後に「まだいいね」と言いました。当時の私はいつか欲しいと思ってくれるのではないかと思いました。(結局6年待っても変わらないのですが)

 

子どもが欲しいと言ってから夫婦生活が減っていたのですが、私は懲りずに「子どもどう?」と頻繁に聞きました。気づくと結婚して1年も絶たないうちにセックスレスになりました。(このときはここから離婚する5年後までレスになるとは思っていませんでした)

 

夫婦のコミュニケーションが減るのが寂しかったので、「子どもを作る目的ではなければ夫婦の営みをできるのか」と聞いたところ、私がピルを飲めばしても良いという返答でした。

私は交際時と結婚の話が出てからの計2回、元夫の希望でアフターピルを使用していたため、元夫の都合で薬を飲むことに抵抗がありました。

アフターピルの2回目の処方を受ける際には女医さんから「半年前にも受診していますよね。パートナーとよく話し合ってください。次はパートナーの方と一緒に来てください」と言われていました。思い返すと、それを元夫に伝えてたときから徐々に夫婦生活の頻度が減り、子どもの話をしたことで本格的なレスになったなと思います。


私は不満が溜まり元夫に対してわがままを言うようになります。そんな私をなだめるように元夫は、週末にケーキやチョコを買って帰ってきました。
この時点で夫の経済力だけで繋がっている関係になってしまっていたのだと思います。しかし、当時の私は恋した時のときめきを覚えていましたし、憧れの先生だったので、少しでも尽くそうと家事や貯金や親戚の付き合いなどをこなしました。(こなしすぎて元夫が堕落してしまうなんてこの時は思ってもいなかったのです)

 

ここまで読んで下さりありがとうございます。

次回に続きます。

2_初婚の話_結婚してから_1

こんにちは。raf(ラフ)です。

今日は生憎の雨で引きこもりです。


今回は結婚してからのお話をします。
まず、私自身の話から始めます。私は結婚してからも仕事を続けるつもりだったのですが、ある日から徐々に職場に行くのが苦痛になってしまい、結婚後苦痛がピークに達ししたため、寿退社をすることにしました。


そのあることとは、3.11です。私は北のほうから上京し都内に勤めていました。私は帰宅難民になり電車を乗り継いで歩いて帰ったのですが、帰宅しテレビをつけて愕然としました。涙があふれて震えが止まりませんでした。私の家族や友人は無事でしたが、ニュースを見るたびに心が痛みました。とても他人事とは思えず苦しかったです。


そんな中、職場の人から「自分の家族が無事ならいいじゃない。どうしてそんなに気を落とすの」と言われて傷つきました。正直に「友人の親戚が見つかっていない」と伝えると「遺留品のHPあるよ。見てみなよ」と言われ、遺留品は遺品というイメージが先行した私は「遺留品なんて言わないでください」と憤慨してしまいました。友人にそんなHPを勧めることも、自分がそういうHPを見るのも怖かったですし、本当にそっとしておいて欲しかったのです。


それからしばらくして、放射能の問題が大きく取り上げられるようになりました。東北のお土産は受け取らない、原産地を教えてくれ、という人も職場にいました。そういう発言が聞こえてくる環境で働くことに抵抗を感じました。東北が大変だから今の仕事を大切にこっちで頑張る!という気にはならず、こういう人たちと働きたくないという気持ちが勝っていました。当時の私は20代前半で今以上に感情に正直でした。


「東北が大変だから御馳走するよ」とか「元気がないから飲みに行こう」と誘ってくださる方もいたのですが、飲んで騒いだりカラオケで楽しく歌ったりする気にもなれず、誘ってくださる方と顔を合わせるのも嫌になってしまいました。同年代の方が周囲にいなかったので、年上の方に相談すると「誘われるうちが華なのよ」と言われてしまい、職場での雑談も億劫になってしまいました。(30歳を過ぎた現在も、『誘われるうちが華だ』なんて思えないので若さに執着がないタイプなのかも)とにかく今以上に繊細で未熟でした。

 

そして、元夫に「仕事を辞めたい」と伝え仕事を辞めました。元夫の給料は私を養うのには十分だったので辞めるのはスムースでした。

心身の休養が済んで「無理ない程度にまた働きたい」と夫に伝えたとき、「働くのは良いけどもう正社員にはならないで欲しい。愚痴を聞くぐらいなら生活費出して家事をしてもらったほうが良い」と言われました。
当時はこの言葉に守られているという感動を覚えたのですが、今思うと、私の社会との関りや幸福に興味がなかったんだろうなと思います。元夫はにこにこと家事をして食事を提供して欲しいという気持ちが強かったのだろうなと思います。

それを痛感する出来ことが起こります。

 

ここまで読んで下さりありがとうございます。
次回に続きます。